革新とは、過去を忘れることではなく受け継ぎながら未来を形づくること。ブラフシューペリアの歴史は、モーターサイクルという枠を超えた「哲学の系譜」です。1919年、第一次世界大戦の混乱を越え、若き創業者 ジョージ ブラフは、父ウィリアム ブラフが手掛けた「ブラフ モーターサイクルス」を超えるために、「シューペリア (Superior=至高 / 優れたもの) 」という誓いをその名に刻み、ブランドを興しました。彼が目指したのは、単なる乗り物ではなく速さ・美しさ・品位のすべてを併せ持つアーティファクト。魂を宿すモーターサイクルの創造でした。丁寧に1台ごと手作業で組み上げられ、実走による基準を満たし、ジョージ ブラフ自身の手による厳しい審査に合格したモーターサイクルだけが、ブラフシューペリアとして認められる。その妥協なき姿勢は、数々の世界速度記録や技術革新として結実し、いつしかブラフシューペリアは世界で最も優雅で、最も速いモーターサイクルと称されるようになります。しかし、その道のりは決して平坦ではありませんでした。戦争、時代の転換、そして長い沈黙。それでもなお、ブラフシューペリアという名は忘れ去られることなく憧れと尊敬の象徴として世界中の愛好家たちの心に生き続けてきました。
そして現代 ──
ティエリー アンリエットの手によって再び蘇ったブラフシューペリアは、かつての理念を忠実に受け継ぎながら、新たな時代の風を纏い、ふたたび世界を魅了しています。ここに記されるのは、その100年にわたる旅の軌跡。スピードと美学、誇りと情熱が交差する、伝説の歩みをたどる物語です。
1919年
ブランド創設
── 世界最高のモーターサイクルを
求めて
第一次世界大戦後、イギリス ノッティンガムにて、ジョージ ブラフは「ブラフシューペリア(Brough Superior)」を創設。父ウィリアムの手掛けるブラフ モーターサイクルを超える、Superior(至高 / 優れた)を目指すためである。彼は速さ、美しさ、品質のすべてを兼ね備えたマシンを作り出すことを信条とし、1台ごとに手作業で組み上げ、出荷前には自ら最高速テストを行う徹底ぶりを貫いた。単なる乗り物ではない。魂を宿した芸術品を生み出すこと。それが、ブラフシューペリアが歩み始めた最初の一歩でした。
1920年
Mark I Overhead JAP
登場
── 最初の量産モデル
ブランド創設から間もなく、ジョージ ブラフは自らの理想を具現化した最初のモデル「Mark I」を完成させます。搭載されたのは当時最高峰とされたJAP社製のオーバーヘッドバルブ(OHV)エンジン。この選択は、彼が性能に一切の妥協を許さなかった証であり、Mark Iは卓越した加速と滑らかな走行性能で市場を驚かせました。速さだけを求めずに曲線を生かした優美なフレームワーク、丁寧な仕上げなどすべてが芸術作品のような存在感を放つこれまでにない異彩のモーターサイクルの誕生です。1919年に産声を上げたブランドは、この年、初めて確かな形となって走り出しました。
1921年
Mark I Side-valve JAP
追加
── 普及への第一歩
ジョージ ブラフはこの年、さらなる挑戦に乗り出します。より多くのライダーにブラフシューペリアの世界を届けるため、Mark Iに新たな仕様を加えました。JAP社製サイドバルブエンジンを搭載した「Mark I Side-valve」は、従来のオーバーヘッド仕様に比べて扱いやすさと信頼性を高め、同時にコストパフォーマンスを追求。高性能と高品質はそのままに、より幅広い層への門戸を開くモデルとなったのです。この戦略はブランドの礎をより強固なものとし、ブラフシューペリアは静かに、しかし確実にその名声を広げていきました。
1922年
S.S.80 JAP 登場
── 速さの証明
ジョージ ブラフが次に目指したのは、誰もが認める「速さ」の象徴でした。この年、世界初となる一定区間での平均時速80マイル(約128km/h)を公道テストにより保証した市販モーターサイクル「S.S.80 JAP」が登場します。搭載されたのはJAP製Vツインエンジン。そして何より特徴的だったのは、出荷前に必ず公道で速度テストを行い、達成できた個体だけが世に送り出されたことです。設計上の数値ではなく実際に走って確認する徹底した検証。S.S.80はブラフシューペリアの名を一躍高め、走りの哲学を体現する存在となりました。
1924年
S.S.100 JAP 登場
── 伝説の幕開け
S.S.80の成功に続き、ジョージ ブラフはさらなる高みを目指します。この年、世界初の平均時速100マイル(約160km/h)保証を掲げた市販モーターサイクル「S.S.100 JAP」が登場しました。搭載されたのは、精緻に調整されたJAP製Vツインエンジン。S.S.100もまた、納車前に必ず公道で平均時速100マイル以上を達成できた車輌だけが顧客に引き渡される徹底ぶりでした。それは技術だけではなく誇り高きクラフトマンシップの証。ブラフシューペリアはこのモデルによって、速さ、美しさ、そして伝説を確立したのです。
1925年
バート ル バックと
速度記録
── 更なる飛躍へ
S.S.100の登場は、ブラフシューペリアをさらなる速度の領域へと導きます。この年、エースライダーであり天才チューナーでもあったバート ル バックが、ブラフシューペリアを駆って記録挑戦に臨みます。ペンディン サンズのビーチを舞台に、1マイル区間(Flying Mile)で平均時速117.13マイル(約188.5km/h)、1キロメートル区間でも116.66マイル(約187.8km/h)を達成しました。瞬間的な速さではなく、持続する速さを誇るモータ-サイクルとして、その名声は世界に広がりました。ブラフシューペリアは、ただのラグジュアリーモーターサイクルではない ── 本物のスピードマシンであることを、誰もが知ることとなったのです。
1926年
記録更新への渇望
── 限界への挑戦
速度への渇望は留まることを知らず、バート ル バックはさらに記録を塗り替えるべく挑戦を続けます。この年、彼は改良を重ねたS.S.100で、瞬間最高速124マイル(約199km/h)を記録。この記録は公式認定こそされなかったものの、ブラフシューペリアがいかに限界を押し広げていたかを物語るものでした。速度を求める情熱、美しさにこだわるクラフトマンシップ、その両輪が支えるブランドの矜持。ブラフシューペリアは、速度と品格を両立する唯一無二の存在として、静かに、しかし確実に世界を魅了し続けていたのです。
1927年
130マイルへの到達
── 世界最速への道
記録を塗り替えるための挑戦は続き、ジョージ ブラフ自身もハンドルを握ります。この年、フレディ ディクソンとともに、S.S.100を駆ってペンディン サンズで平均時速130マイル(約209km/h)超えに成功。一瞬の速さではない、長い区間を貫く平均速度の到達。ブラフシューペリアは「世界最速市販モーターサイクル」としてその名をさらに確立していきます。挑戦と進化を止めないブランドの精神は、さらなる伝説への扉を開いたのでした。
1928年
自らを超えて
── 記録更新への執念
前年の偉業にも満足することなく、ジョージ ブラフはさらなる高みを目指します。この年、彼は改良を重ねたS.S.100で再びペンディン サンズに挑み、平均時速130.6マイル(約210.2km/h)を記録。わずかにでも限界を押し上げようとする執念。それは数字の競争ではなく、速さという美学を極めるための戦い。ブラフシューペリアは、自らの記録を自らの手で塗り替え、世界最速の名を揺るぎないものにしていきます。
1929年
速さの探究者
── バート ル バックの最期
速さを追い求める者たちにとって、限界は常に挑むべき存在でした。この年、ブラフシューペリアの黄金期を築いたもう一人、バート ル バックが事故により帰らぬ人となります。記録への飽くなき情熱、エンジニアとしての鋭敏な直感、そしてライダーとしての非凡な技術。彼のすべてが、ブラフシューペリアの名声を支えてきました。バート ル バックの死は、ブランドにとっても一つの時代の終わりを意味していましたが、彼が刻んだ速度への信仰は、ブラフシューペリアの魂の中に、確かに生き続けています。
1930年
技術的探究
── 多様化への挑戦
バート ル バックの死を乗り越え、ブラフシューペリアは技術的な新境地を切り拓きます。この年、同社はMAG社製水冷直列4気筒エンジンを搭載した試作車「ストレート フォー(STRAIGHT FOUR)」を発表。当時としては極めて革新的な設計だったものの、コストや複雑さから市販には至りませんでした。一方で、実用性を追求した大型モデル「10-15 JAP」を投入。警察車輌やサイドカー牽引に適したトルク型モデルとして高い評価を受けブランドは高性能と実用の両立という新たな可能性を実現しました。
1931年
小型モデルへの挑戦
── 新たな市場へ
ブラフシューペリアはこの年、従来の大型高性能路線とは異なる挑戦に乗り出します。500ccクラスの小型モデル「500 オーバーヘッド(Overhead)」を開発し、限られた台数ながら市場に投入。軽量で取り回しやすい設計は、都市部のライダーや実用志向のユーザー層にも応えるものでした。ラグジュアリーとスポーツ性能を極めるだけでなく、幅広いライダーに向けたラインナップ拡張。それはブランドの新たな可能性を模索する試みでした。
1932年
多様な個性
── 新たな可能性を求めて
ブラフシューペリアはさらなる多様化に乗り出します。この年、10-15 JAPに続き、自動車用エンジンを搭載した異色の試作車「Austin STRAIGHT FOUR」を発表。また、より手頃な価格帯を狙った小型Vツインモデル「689 Junior」も登場。斬新な発想と堅実な実用性 ── 二つの方向性を同時に探るこの時期、ブラフシューペリアは高級スポーツ路線だけでなく、多様な市場への拡張を静かに模索し続けていました。また同年、オーストラリア人レーサーのアラン ブルースがウィーンでブラフシューペリア製サイドカー付きモーターサイクル「リーピング リーナ(Leaping Lena)」を駆り、初めて200km/hの壁(実測約122mph)を突破するサイドカー世界速度記録を達成。この偉業を成し遂げたマシンにちなみ、「リーピング リーナ」の名はブラフシューペリアの伝説として語り継がれ、現代の復刻プロジェクトでもサイドカーのコンセプトモデル名に採用されています。
1935年
新たな鼓動
── マチレスエンジン搭載
時代の移り変わりの中、ブラフシューペリアは新たなパートナーシップを結びます。この年、伝統のJAPエンジンに代わり、マチレス社製のVツインエンジンを搭載した「S.S.80 マチレス(Matchless)」が登場。堅牢で扱いやすいマチレスエンジンは、ブラフシューペリアらしい美しい車体と見事に調和しツーリング性能と快適性を兼ね備えたモデルとして高い評価を得ました。変わりゆく時代に応えながらも、ブラフシューペリアは独自の品格を守り続けたのです。
1936年
新たなる頂
── S.S.100 Matchless 登場
さらなる進化を遂げるため、ブラフシューペリアはこの年、マチレス社製の高性能オーバーヘッドバルブエンジンを搭載した「S.S.100 マチレス(Matchless)」を登場させます。伝説のS.S.100に、新たな心臓を与えたこのモデルは、従来の気品と美しさをそのままに、より一層力強い走りを手に入れました。時速110マイル(約177km/h)にも達するその性能は、速さへの情熱を決して失わないブランドの魂を、静かに、しかし鮮烈に物語っていました。
1937年
世界最速への到達
── ファーニホウの挑戦
速度への探究心は、ブラフシューペリアをさらに先へと駆り立てます。この年、エリック ファーニホウが改良を重ねたS.S.100で、世界最高速記録への挑戦に臨みました。ハンガリー ギョンのテストコースで、スーパーチャージャー付きモデルを駆り、平均時速169.79マイル(約273.25km/h)という驚異的な速度を記録。この記録はモーターサイクル史上屈指の偉業とされ、ブラフシューペリアの名を永遠のものとしました。速さを極めるという信念。彼らのすべての挑戦を貫く真理でした。
1938年
夢の結晶
── Dream 発表
革新を追い求めたブラフシューペリアは、この年、かつてない試みへと挑みます。水平対向2気筒エンジンを採用し、金色に輝くボディをまとった試作車「ドリーム(Dream)」を発表。二重クランクシャフトを備えたこの特異なモデルは、技術革新と芸術性を極めた結晶でした。市販化には至らなかったものの、その存在はブランドの限りない挑戦心と単なる速さを超えた機械美への憧憬を、静かに、しかし鮮烈に刻み込みました。
1939年
ブルックランズに
刻んだ栄光
── ノエル ポープの挑戦
時代の終焉が近づく中でも、ブラフシューペリアは走り続けていました。この年、ノエル ポープがS.S.100を駆り、英国ブルックランズ サーキットで新たな周回速度記録に挑みます。結果、1周あたり平均時速124.51マイル(約200.38km/h)という驚異的な記録を達成。さらにサイドカー部門でも最高速記録を打ち立て、二輪と三輪の両カテゴリーで名を残しました。戦火の足音が迫るなか、ブラフシューペリアは最後まで速さへの情熱と誇りを燃やし続けていたのです。
1940年
戦火の中で
── 生産停止と軍需転換
第二次世界大戦の勃発により、世界が再び戦争の暗闇に包まれるなか、ブラフシューペリアも大きな決断を迫られます。この年、民生用モーターサイクルの生産を正式に終了し、すべての設備を軍需生産へと転換しました。航空機用エンジン部品、軍用装備の製造へと舵を切り、技術者たちは祖国のために働く道を選びます。最高峰のモーターサイクルを作る夢は一時中断されたものの、その精緻な技術と誇り高きクラフトマンシップは、戦時下にあっても脈々と息づいていたのです。
1945年 以降
静かな終焉
── そして伝説へ
大戦が終結しても、ブラフシューペリアが再びモーターサイクルを生み出すことはありませんでした。戦後の資材不足と市場の変化、そして何より「最高のものだけを作りたい」というジョージ ブラフの信念が、復活への道を閉ざしたのです。輝かしい記録とともに幕を下ろしたブランド。しかし、その栄光は失われることなく世界中のライダーと愛好家たちの心の中に生き続けました。ブラフシューペリアは、伝説となったのです。
1970年
創業者
ジョージ ブラフ永眠
── ひとつの時代の終焉
静かに眠っていたブラフシューペリアに、ひとつの大きな区切りが訪れます。1970年、創業者ジョージ ブラフが79歳で永眠。彼は「二輪のロールス ロイス」と称えられたマシンたちを生み出し、モーターサイクルという存在に新たな価値を与えた先駆者でした。ブランドはすでに休眠していましたが彼の生み出した哲学と美学は、時代を超えて静かに輝き続けていたのです。
2008年
伝説の再始動
── 新たな息吹
眠り続けていたブラフシューペリアに、新たな命が吹き込まれます。2008年、ヴィンテージモーターサイクル界の情熱家マーク アッパムがブランド権を取得。かつて世界を魅了した伝説を、現代に甦らせるための挑戦が始まりました。彼はフランスの熟練デザイナー、ティエリー アンリエットと手を携え、伝統と革新を融合させた新たなブラフシューペリアを目指します。時を越え、ふたたび走り出すために ── 伝説は静かに、その鼓動を取り戻し始めたのです。
2013年
新生 S.S.100 登場
── 伝統と革新の融合
長い沈黙を破り、ブラフシューペリアは世界の舞台に帰ってきました。2013年、イタリア ミラノで開催されたEICMAショーにて、新生S.S.100のプロトタイプが華々しく発表されます。伝統の美しいシルエットを受け継ぎながら、最新技術を惜しみなく注ぎ込んだその姿は、かつての伝説を知る者にも、新たに魅了される者にも、深い感動を呼び起こしました。ブラフシューペリア ── それは再び、世界に誇るべき名となったのです。
2015年
新たな工房
── トゥールーズから世界へ
2015年、ブラフシューペリアは南フランス トゥールーズに専用ファクトリーを構え、正式に生産を開始します。最新のエンジニアリングと伝統のクラフトマンシップを融合させたこの工房では、1台1台が手作業によって丹念に組み上げられました。それは、単なる復活ではありません。かつてジョージ ブラフが目指した「世界最高のモーターサイクル」を現代においても忠実に、そして新たな形で実現しようとする魂の継承だったのです。
2019年
誇り高き協奏
── アストン マーティンとの共演
ブラフシューペリアは、さらに新たな地平を切り拓きます。この年、英国の名門自動車メーカー アストン マーティンと手を組み、限定モデル「AMB 001」を発表。ターボチャージャーを搭載したVツインエンジンとカーボンファイバーを駆使した先鋭的なボディ。伝統と革新が交錯するこのモーターサイクルは、サーキット専用モデルとして100台限定で生産され、瞬く間に世界中のコレクターたちを魅了しました。二つの伝説が響き合い、新たな物語が紡がれた瞬間でした。
2020年 以降
新たなる航海
── 現代への進化
ブラフシューペリアは、さらに多彩な世界を切り拓いていきます。2020年、伝説の英雄T.E.ロレンスに捧げる「ロレンス(Lawrence)」を発表。続いて、砂漠の名を冠した「ネフッド(Nefud)」、スポーツ性を高めた「ダガー(Dagger)」など独自の美学を受け継ぎながらも、現代の感性に応える新たなモデル群を次々と生み出しました。かつて世界を驚嘆させた「速さ」と「優雅さ」── その魂は今もなお、一つひとつのマシンに脈打っています。ブラフシューペリアの物語は、終わることなく進化を続けているのです。
2025 年 ── そして、今
── Brough Superior,
Timeless and Legendary
2025年、ブラフシューペリアはさらなる高みへと歩を進めます。スイスの高級時計ブランド「リシャール ミル」との協業によって生まれたコラボレーションモデル、RMB01。限界性能と芸術性の融合を追い求めるこのプロジェクトは、ル マン クラシックの舞台でその姿を現しました。それは、機械を超えた存在への挑戦であり、アートとしてのモーターサイクルという哲学を、さらに先へと導く試みでもあります。
1919年、ジョージ ブラフの情熱から始まった物語。速さだけを求めず機械に魂を宿し、アーティファクトの域にまで高めるという揺るぎない信念──。戦争という時代の荒波を越え、長い眠りを経て、ブラフシューペリアは再びその名を世界に刻みます。革新と伝統。スピードと優雅さ。機能と美学。そのすべてを併せ持つ存在は、今もなお変わることなく走り続けています。
ブラフシューペリア
── それは、時代を超え、心を震わせる
永遠の伝説なのです。