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Brough Superior | ブラフシューペリア : エリック ファーニホウ。1937年に平均速度273.25km/hで世界最速を獲得した孤高のライダーとブランドの物語。

エリック ファーニホウ / Eric Fernihough

風を超えた男。ファーニホウと
ブラフシューペリアの軌跡

Brough Superior | ブラフシューペリア : エリック ファーニホウ。1937年に平均速度273.25km/hで世界最速を獲得した孤高のライダーとブランドの物語。

一人の男と
一台のマシン

1930年代、激動の時代。世界は再び不穏な空気に包まれつつありながらも、 人々の心にはまだ、果てしなき挑戦への憧れが燃えていました。 その時代の空の下、ひとりの若き英国人ライダーが、自らの運命を賭けた夢に向かって走り出します。 名はエリック ファーニホウ。彼の胸に宿っていたのは、ただひとつ ── 「世界最速の男」となることでした。

しかし、栄光への道は孤独で険しく、ファーニホウには支援は多くありませんでした。 豪奢な資金援助も、潤沢なリソースも、彼の背中を押すものはなく、 彼が信じたのは、己の技術、情熱、そして、唯一無二の相棒だけでした。

その相棒こそが、ブラフシューペリア ── モーターサイクルのロールス ロイスと謳われた、英国製モーターサイクルの至宝。 手作りで紡がれたその機械は、精緻な技術と誇り高きクラフトマンシップを宿し、 ファーニホウの夢を叶えるための最良のモーターサイクル。 それはもはや、ライダーとマシンという一面的な関係ではなく、 運命を共にする者同士が互いの鼓動を重ね合う、かけがえのない絆とも呼べるものでした。

速度に魅せられた若者と、最高の機械が紡いだ物語 ──。 人知れぬ闘志と情熱、成功と挫折、栄光と悲劇、そして永遠に輝き続けるレガシーの記憶。 エリック ファーニホウとブラフシューペリア。 二つの名が交錯したその瞬間から、伝説は静かに走り出していきました。

速度記録への挑戦

速度 ── それは、エリック ファーニホウにとって無機質な数値ではありませんでした。 彼にとって、魂を解き放つための証明であり、自らの存在を世界に刻みつけるための刃でもありました。 ブラフシューペリアという至高の相棒を得た彼は、躊躇うことなく世界最速という未知の地平へ挑み始めます。 1927年、イギリスの地で、その第一歩が刻まれます。 排気量およそ1000cc、J.A.P製Vツインエンジンを搭載したブラフシューペリアS.S.100。 幾度となくチューニングを重ねたそのマシンを駆り、ファーニホウは122.38マイル/h(約196.9km/h)という、 当時としては驚異的な世界最高速度を叩き出します。 しかもそれは、まだ見ぬ高みへの序章にすぎませんでした。

時は流れ、1935年。 イギリスの伝説的サーキット、ブルックランズ。 この楕円形の高速トラックにおいて、ファーニホウはさらなる快挙を成し遂げます。 自ら改造を施したスーパーチャージャー付きのブラフシューペリアを操り、 周回速度123.58マイル/hという最速ラップレコードを樹立。 この記録はブルックランズが閉鎖される1939年まで、ただ一人ノエル ポープに破られるのみという、 孤高の金字塔となりました。

挑戦の炎は、なおも燃えさかる。 1936年、ファーニホウはさらに速さを追い求め、ブラフシューペリアにスーパーチャージャーを搭載。 そしてハンガリーをはじめとする各地で、フライングマイル(往復平均)163.82マイル/h(263.64km/h)を叩き出し、 かつてドイツの英雄エルンスト ヘンネが打ち立てた記録を超えることに成功します。 それは、時代を二分する最速の座を賭けた熾烈な闘いの幕開けでもありました。

そして1937年4月19日。 ハンガリー、ギョン。 新たに整備された真っ直ぐな高速道路を舞台に、ファーニホウは世界が未だ知らぬ頂きを目指します。 排気量995ccのブラフシューペリア、そして彼自身の技術と覚悟。 全てをかけた往復走行の末に叩き出した速度は、平均169.79マイル/h(273.25km/h)。 この瞬間、エリック ファーニホウは正式に地上最速の男としてその名を刻みました。

しかし、彼の飽くなき挑戦はそれだけに留まりません。 同じ日、サイドカーを装着した別のマシンでも走行を敢行し、 137.11マイル/h(220.66km/h)という新たな世界最速記録を樹立。 二輪単車とサイドカー、両方のカテゴリーで頂点を極めたのです。

これらの偉業は、数字が並ぶだけの記録ではありません。 それは、命を賭して速度という名の夢を追い続けた男と、 限界を超えて応え続けたブラフシューペリアという機械が奏でた、ひとつの魂の交響曲。 ファーニホウの挑戦は、世界最速という称号以上のものを世に遺しました。 それは、限界を恐れずに進む者たちへの、時を超えたメッセージとも受け取れます。

Brough Superior | ブラフシューペリア : エリック ファーニホウ。1937年に平均速度273.25km/hで世界最速を獲得した孤高のライダーとブランドの物語。
Brough Superior | ブラフシューペリア : エリック ファーニホウ。1937年に平均速度273.25km/hで世界最速を獲得した孤高のライダーとブランドの物語。

速度という名の信仰

エリック ファーニホウにとって、速度とはただの記録ではありませんでした。 それは、世界に向けた問いであり、同時に、自らが生きた証を刻み込むための行為でもあったのでしょう。 彼は、明確な意志とともに走りました。「世界最速の男になる」── その目標は夢想ではなく、現実の闘いとして彼の内に燃え続けていました。 野心は確かに彼の胸にあった。しかし、それは誇示や見せびらかしではなく、 速さという抽象的な概念に誠実であり続けるための、切実な欲求でもあったのです。

ファーニホウは、孤高の道を選びました。 ドイツのエルンスト ヘンネのように、国家の威信と莫大な資金を背景にしたライダーたちが 風洞実験や最新技術を駆使して記録を塗り替えていく中、 彼はほとんど一人で、手作業でマシンを整備し、記録挑戦に臨みました。 その姿は、どこか無謀で、同時に深く人間的でもありました。 自らの限界に挑みながらも、機械と向き合い、調和を模索し続ける姿勢は、 まさに職人であり哲学者であり、戦士でした。 彼が選んだ相棒、ブラフシューペリア。 それは速さのための道具ではなく、意思を映し出す器でした。 ファーニホウにとって、機械は手段ではなく、対話の相手であり、思想を託す構造体でもありました。 速度とは、肉体を超えてなお届く精神の射程であり、 速く走ることそのものに価値があるのではなく、 なぜ速さを求めるのかを問い続ける姿勢こそが、彼の中核を成していたのでしょう。

記録を打ち立てるたびに、彼は自身の哲学に近づいていきました。 けれどそれは、安全地帯の中で積み上げられた数値ではなかった。 トラブル、故障、事故、失敗 ── あらゆる困難が彼の前に立ちはだかりました。 それでも、彼はマシンとともに何度でも立ち上がり、再び走り出します。 野心と信念、技術と感覚。 そのすべてをひとつの走行に込めながら、 ファーニホウは「速度とは何か」という命題に、生涯をかけて挑んでいたのです。 命を懸けた挑戦の果てに、1937年。 ハンガリー ギョンの直線路にて、ファーニホウは平均速度169.79マイル/h(273.25km/h)という 世界最速記録を樹立します。 その瞬間、彼の野心は成就しました。 しかし彼にとって重要だったのは、称号そのものではなかったでしょう。 そこに至るまでのすべて ── 孤独な準備、幾度の修復、精神をすり減らすような葛藤、 そしてブラフシューペリアとの一体感。 そうした全過程が、彼の挑戦を「信仰」と呼ぶにふさわしいものにしていたのではないでしょうか。

記録や勲章は、時間とともに色褪せるかもしれません。 けれど、真摯な意志と共に刻まれた軌跡は、誰かの心に残り続けます。 今もどこかで、あの音が風とともに蘇るように。 ファーニホウの走りは、ただ速さを追ったのではなく、 存在の意味を問うた旅路だったのです。

エリック ファーニホウと
ブラフシューペリア

エリック ファーニホウとブラフシューペリア── 彼らを結んでいたのは、レーサーとマシンという単純な関係ではありませんでした。 互いを信じ、極限へと導き合う、深い信頼と技術の絆がそこにはありました。 1930年代半ば、ファーニホウは孤独な挑戦者でした。 資金も支援者も決して十分とは言えない状況の中、それでも夢を追い続けた彼に、 手を差し伸べたのがブラフシューペリア創業者・ジョージ ブラフでした。 ジョージはビジネスとしてではなく、ファーニホウの才能と情熱に心から共鳴し、 自社の誇りを賭けてS.S.100を二台提供しました。 一台は新品同様、もう一台は中古パーツを組み上げたもの。 ファーニホウはそれらを丹念に整備し、自らの記録挑戦マシンへと仕立てていきました。

ブラフシューペリア── モーターサイクルのロールス ロイスと称された至高の一台。 その選択は、速さへの期待だけではありません。 極限の速度領域において命を預けるには、絶対的な信頼が必要だったのです。 ファーニホウは超高速走行中、幾度もタイヤのバーストやオイル漏れ、 点火トラブルに見舞われました。 それでもブラフシューペリアのフレームとエンジンは、 彼の命がけの走りに応え続けました。 轟音と振動のなかでマシンを信じ抜く。 マシンもまた期待に応え続ける。 その間に生まれた絆は、機械と人間という枠を超え、 運命共同体と呼べるものであったのかもしれません。

さらにファーニホウの挑戦は、独自の技術と工夫によって支えられていました。 BMWやGileraが風洞実験を駆使していた時代、 彼は冬の間、ひとり板金工場に通い詰め、 アルミニウム製の流線型ボディを自らの手で作り上げました。 磁気点火装置の配線を引き直し、クラッチやギアボックスを強化し、 小さなガレージの中で汗と油にまみれながら改良を積み重ねていったのです。 ブラフシューペリア側も部品供給と技術的助言で彼を支え続けました。 それは巨大企業の後ろ盾を得たライバルとは異なる、 人と人とが信頼で結ばれた手作りの挑戦でした。 ファーニホウとブラフシューペリア。 二人三脚で歩んだ日々は、華やかな栄光だけでなく、 泥と汗と誇りに満ちた真の闘いの記憶でもありました。 二人が交わした絆は伝説となり、今なお速度の神話として語り継がれています。

Brough Superior | ブラフシューペリア : エリック ファーニホウ。1937年に平均速度273.25km/hで世界最速を獲得した孤高のライダーとブランドの物語。
Brough Superior | ブラフシューペリア : エリック ファーニホウ。1937年に平均速度273.25km/hで世界最速を獲得した孤高のライダーとブランドの物語。

世界最速へのドラマ

世界最速── その称号は、ただの栄誉ではありませんでした。 時代の威信を懸けた熾烈な闘争の舞台であり、 魂を削る覚悟を試される戦いの場でもあったのです。 1930年代、世界は再びざわめき始めていました。 ドイツではエルンスト ヘンネがナチス政権の後押しを受け、 最新鋭のBMWマシンと巨額の資金を背に速度記録を更新し続け、 一方のイギリス民間ライダーたちは、 わずかな資金と限られた支援の中で挑むしかありませんでした。 ファーニホウもまた、孤独な戦士として、 ただ己の情熱とブラフシューペリアへの信頼だけを武器に闘っていました。

1936年、彼はドイツのアウトバーン フランクフルト〜ダルムシュタット区間で開催された 公式記録会に挑みます。 ナチスの威信を懸けた巨大イベント。 その中に乗り込んだファーニホウとブラフシューペリアの姿は、 どこか場違いに見えたといいます。 最新の流線型BMWマシンに囲まれ、 彼のブラフシューペリアは 「中世の遺物」と揶揄されたほどでした。 そして案の定、オイル漏れ・点火不良・クラッチ焼き付き── トラブルが続出し、1936年の挑戦は無念の不発に終わります。 しかし、ファーニホウの闘志は揺らぎませんでした。 イギリスへ戻るとマシンを徹底的に整備し直し、 磁気点火装置の配線を一から引き直し、 破損したギアボックスを強化版に交換。 さらに走行5000マイル以上の道のりを自ら車で移動しながら、 記録挑戦にふさわしい道を探し求めます。 そして見つけたのが、ハンガリー・ギョンの新設直線道路。 ロンドン〜イスタンブール国際幹線の一部となるその道は、 平坦で真っ直ぐ、記録挑戦に理想的な舞台でした。

1937年、ファーニホウは満を持してギョンへ向かいます。 しかし最初の挑戦では、片道走行でヘンネの記録を超えながら、 復路でギアボックスが破損し認定には至りません。 それでも彼は諦めない。 イギリスへ戻り再整備し、再び1100マイルを自ら運転してギョンへ戻る。 その執念は、もはや狂気にも近いものでした。 そして1937年4月。 天候不順、資金難、数々の困難を乗り越えた末に、 ついにその瞬間が訪れます。 ミスひとつない完璧な走行。 轟音を響かせながらブラフシューペリアは地平を切り裂き、 **平均169.79マイル/h(273.25km/h)** を叩き出しました。 この瞬間、エリック ファーニホウは世界最速の男となったのです。 その場にいた仲間たちも、静かに拳を握りしめたことでしょう。 しかし、世界最速の座は永遠ではありませんでした。 1937年秋、イタリアのピエロ タルフィ、そしてヘンネが 新たな記録を打ち立て、ファーニホウを再び追い越します。 それでも彼はひるまない。 更なる改良、更なる挑戦を重ねながら、 世界最速奪還のために、彼は再びマシンと向き合い続けたのです。

果てなき夢の軌跡

エリック ファーニホウとブラフシューペリア── ふたつの魂が出会ったとき、 速度という名の伝説が静かに走り出しました。 1937年、ハンガリーのギョンにおいて、 ファーニホウはブラフシューペリアと共に 平均速度169.79マイル/h(273.25km/h)という 驚異的な世界記録を打ち立てます。 その挑戦は、彼自身の情熱、 ブラフシューペリアの圧倒的な性能、 そして両者の深い信頼によって支えられていました。 命を懸けて限界を押し広げるファーニホウ。 そしてその極限の世界で、 力強く脈動し続けたブラフシューペリア。 ふたりが交わした絆は記録更新という枠を超え、 人と機械が響き合う奇跡の物語となり、 今なお語り継がれています。

1938年、ファーニホウはさらなる挑戦に向かいますが、 不運にも別のマシンによる走行中の事故により、 志半ばでその生涯を閉じることとなりました。 しかし、その結末がふたりの物語を曇らせることはありませんでした。 ファーニホウは「戦前最後の世界最速ライダー」として、 ブラフシューペリアは「世界最速のマシン」として、 共に黄金の時代を駆け抜け、その軌跡を永遠に刻んだのです。 ブラフシューペリア社は今なお彼を誇り高く称え、 公式資料やヘリテージ展示ではその勇姿が大切に紹介されています。 スピードに魅せられたひとりの男と、 それに応えたひとつのモーターサイクルの物語は、 静かに受け継がれ続けています。 エリック ファーニホウとブラフシューペリア── ふたつの名前が交錯したとき、 速度記録を超えた魂と魂の交響曲が奏でられたのです。 そして今もなお── その音色は、風と共に世界を駆け巡っています。

Brough Superior | ブラフシューペリア : エリック ファーニホウ。1937年に平均速度273.25km/hで世界最速を獲得した孤高のライダーとブランドの物語。